高林寺の概要
正保三年(1646年)、晧台寺重興開山、一庭融頓和尚によって建てられた高林寺は、禅宗の一派である曹洞宗(本山は福井県の永平寺・神奈川県の総持寺)のお寺で、本尊はシャム王朝(現在のタイ国)の勅願寺たるサケート寺から贈られた釈迦如来像です。
光源寺から北方松山(武功山)の麓にあり、鳴滝川を隔てて城古跡と相対し、その背後は山林で峰火山に通ずる山道があります。高林寺の後山にある「不動堂」に祭られている不動尊には、欠かさず参詣すると願い事がかなうと云う伝説があります。
また山門内側に安置されている赤地蔵大菩薩には、承応三年(1654年)卯月8日、北馬町、立華市助の銘があり、長崎で最も古い石仏、病気平癒のご利益があると云われています。
高林寺の歴史
正保三年(1646年)、晧台寺重興開山、一庭融頓の開基。一庭禅師が光雲寺、永昌寺、高林寺を創建した三末寺の一つです。
高林寺は一庭融頓が長崎奉行の許可を得て、禅僧天宗融察と謀り、和蘭陀通詞名村・猪村両氏の援助もあり、玉園山(諏訪神社の地)の南麓に創建し、馬町、炉粕町、及び西山の檀徒をして当寺に付属した。
当寺は一庭融頓を開基と景仰し、天宗融察を第二代、寛文8年(1668年)全覚融子が第三代住持となったと記される。
初め炉粕町(現日本銀行長崎支店付近)に建てられたが、明治45年(1912年)に敷地を三菱長崎造船所に社宅用地として売り、晧台寺末庵の知足庵があった現在地に移転改築した。
文化6年(1805年)、高林寺は佐賀藩の陣場となる
- 当寺16代住持覚文は佐賀藩主、鍋島甲斐守の請ひにより、異国船による長崎の異変の際には当寺を鍋島侯の陣場に供することを承認したと記してある。
(当時異国船入港の長崎警備の任は長崎奉行の指揮下にあって、佐賀藩と福岡の藩が交互に長崎の警備についていたと云われる) - 文化8年イギリス軍艦フエートン号の長崎港侵入事件があり、時の奉行松平図書頭康秀は責任を感じ自害した。墓は大音寺の境内にある。
安政4年(1857年)9月、高林寺の火災
- 26台住持梅嶺の時、当寺本堂より火を出し寺内諸堂全焼し、記録文書、什物など皆鳥有に帰した。
- 元治元年(1864年)8月、檀家の寄進によって本堂上梁式を挙げ再建された。
明治維新後、新に観音堂が建てられた
- 明治維新後、神仏混交を禁ぜられ、境内鎮守天満宮と稲荷社とを境外に移し、同時に炉粕町荒神社に祀れる「準提観世音菩薩像」を境内に移し、新たに観音堂が建てられた。
明治43年(1910年)、高林寺の移転
- 明治43年(1910年)、炉粕町から鳴滝の地に移転、現在に至る。
髙林寺の本尊
本尊はシャム王朝(現在のタイ国)の勅願たるサケート寺から贈られた釈迦如来像です。
10年余りシャムに滞在した長崎の池崎新吉氏が帰国の際に譲り受け、明治40年に寄贈した。サケット寺が池崎氏にあてた贈与状は、「長崎市史地誌編仏寺部」に一語一語、記録されている。
高林寺も鎌倉時代の仏像をお礼に贈り、二つの像はささやかな国際親善の証となった。